池田拓馬 個展「けされる絵/描かれる時間」作家インタビュー
実体のあるモノと映像を使った表現を行う美術家・池田拓馬氏は「虚構と現実を同居させる」不思議なアート作品を2015年春ごろからつくり始めています。
個展タイトルになっている新作では、市民が壁画を描き、一部を池田氏が白く塗り消すまでを収めた映像が壁画に重ねられています。映像と壁画が繋がっていき、白く消されていく変化の面白味と、参加した人たちの時間や創作のよろこびを、映像のみ、壁画のみで鑑賞した時よりも感じられる作品です。
本展では新作を含む4点を展示。
映像を使った作品を国内外で発表し続ける池田氏にお話を伺いました。
油絵との出会い
-アートにめざめたきっかけは?-
神奈川県立上矢部高等学校の美術コースに入学したこと。
油絵は、描くことが本当に楽しくなったきっかけのひとつです。
油絵のよさは、何度もやり直しがきく。
間違った色や形も重ねていくと、絵や色の深みになります。
間違いが間違いじゃなくなる感覚。
先生や先輩、仲間との出会いもあり、学校の枠を超えて美術関係者の出入りも多く、かなり特殊な環境の高校でした。
高校時代の人間関係と、油絵との出会いが、アートを続けようと思うきっかけになって、東京造形大学の絵画科を卒業後、東京藝術大学大学院の絵画科に進学しました。
展示の機会をつくること
-高校時代には作品を発表していましたか?-
作品が溜まったら個展をするのが普通だよ。と先生に吹き込まれていたので(笑)
ピザ屋のデリバリーのアルバイトなどでお金を貯め、駅のギャラリーを借りたりして展示をしていました。
高校時代に2回、浪人時代に1回、大学時代は数回、個展を開きました。
-現在につながっていますか?-
すごくつながっていて。
展示のない期間でも、実力の問題だけにせず、機会や環境をつくっていくことは、今もすごく役立っています。
今いるここはどこなのか
-自身の作品に影響を受けていることはありますか?-
大学4年生の時に1ヶ月間、インドネシアのジョグジャカルタというところにアーティストレジデンスして「今いるここはどこなのか?」という感覚になったこと。
2006年春に起きたジャワ沖地震の3ヶ月後から滞在して、家とか普通に壊れているけれど、温暖なせいなのか、人の気質がすごく明るくて。
地震で家や建物も壊れてる。けれども、みんな楽しそう。
初めての東南アジアだったり、海外での長期滞在だったりもしたので、日本で暮らしていたことや、東京での暮らしが幻のように感じたんです。
自分たちがみているものって曖昧なんだなっていう。
今、八戸にいて、自分の展示会場にいることも、実は、実感が伴ってないんじゃないか。
今いるここはどこなのか。どういえばいいんだろうと感じた経験が、今の「実体を確かめる」映像作品につながっています。本展は全て「虚構と現実を同居させている」作品です。
自分の身体の中で感じていること=イメージ・感覚、外にあるもの=現実。
自分の中のイメージと外側の現実を一致させることは可能なのか?ということを、外側の実際の絵の具とその中に映し出される映像という実体のないもので実験しています。
内側と外側とを一致させる試みが、本展の作品たちの原点です。
触感のあるものと実体のないもの
-前作までは、既にあるものを切り取ったり消していく行為の映像が重ねられていましたが、今回は描くところから始まっていますね-
学校の倉庫に眠っていた油絵も、ホームセンターで買った板も、実は作った人がいるんですよ。
材料を育てた人もいるし、加工した人もいる。
その見知らぬ人の行為や時間と、どうコミュニケーションするかが前作までは大きな目的でした。
自分の想像もつかないもの、自分の知らないものとコミュニケーションするような。
今までは映像に映る人物は全て自分だけで、ここで手を引くと編集しやすいとか、こうやって切ると手がきれいに映るとか、技術的なことをコントロールできるので、作品のクオリティも努力すれば上げることができました。
今回は、その日に初めて会う参加者ばかりで、人も絵も自分でコントロールできない。
「制御しがたいものを自分の作品の中に取り入れることができるのか」というのが前作までとの大きな違いです。
未知なるものとどう対話するか
-やってみていかがですか?-
とてもよかった!(笑)
消す作業も含めて3時間くらいの映像を25分に編集していると、腑に落ちない部分とか、もっと自然にみせたい部分とかも出てきましたし、映像のビジュアルとしてのクオリティは極力、高めようとしているのですが、なかなかまとまりにくかったことも、新鮮で今までにないものができました。
未知なるものとどう対話するか。というのが、最近、制作のテーマになっていることのひとつ。
木の板と発泡スチロールだったら、コミュニケーションの仕方が変わるじゃないですか。
硬いとか木目があるということで、こちらが何をすればよいのかが変わってきます。
このシリーズの中では最初に作った木の板の作品より、油絵を使った作品2点はより作者を想像しやすくなった分、その人の行為や時間を剥ぎ取っている感覚がありました。
基本的には新作も一方的なコミュニケーションをしているんです。
参加者が一生懸命に描いた絵の一部を、私が消していますし。
コミュニケーションは相互にするもの。という通説はありますが(笑)
「一方的なコミュニケーションを堂々とやること」が大事かなって。
-消している時の参加者の反応はどうでしたか?-
これから消しますね。お疲れさまでした!と言ったら、どこか清々しそうに笑われていました。
予定調和だけが面白い事じゃないって、みなさん気づいているんでしょうね。
絵が消されることによって時間が描かれる
-けされる絵、描かれる時間について教えてください-
絵が消されることによって時間が描かれるんです。
もしここに絵が残っていたら時間は描けないんです。
絵の中の消した部分で映像を流さずに、別な場所のモニターで流したとしたら、ただの記録映像になる。
絵を描いていた時も、自分の作品が残り続けることで、次に進めないというようなことがありました。
思い切って何かを捨てるように自分の中の何かを消す。プライドや偏見などを消すことで、ただの一秒二秒の時間じゃなくて、自分が動きだす感覚。消すことで、輝く瞬間があると思います。
映像をどこに映すか
-これまでの制作活動について教えてください-
数年前までドアを使って作品を作っていましたが、記号的な要素が強くうまく作れなくなってしまった事がありました。
うまく作れなくなってしまった時、展望台でアルバイトしていて。毎日、夜景を見ているうちに、創作ができないのなら、いっそ創作から一番離れた労働している場所から要素を持ってこようと考えて、夜景の映像を使うようになりました。
「映像をどこに映すか」ということに興味を持ち始め、人体やビー玉に投影したり光ファイバーを使って映像をつくってみたり、いろいろと試していました。
2014年、とある展示の時に、予想していた作品が失敗したのですが、展示用の壁とプロジェクターは持参していました。
そこにある材料だけで展示をしたらどうなるか、そこにあるものだけで作らなくてはならない状態になった時、壁を切り抜いて向こう側に見える景色とその工程を撮影する手法を思いついたのが、壁を切り抜く表現の始まりです。
-市民参加の壁画もカラフルで可愛らしく仕上がっていますが、絵画指導などはしたのですか?-
アクリル絵の具とローラー、筆、スポンジを用意して「身体を使って描く」こと、例えば「ひざを曲げながら描くってどんなかな」などと声をかけました。
白く塗ったスクリーンの下にも壁画が隠れていることも想像しながら「映像と実際の壁画が繋がっていくところ」を、ぜひ楽しんで鑑賞してください!
池田拓馬(美術家)Takuma Ikeda
今迄の作品をWEBサイトでご覧いただけます
池田拓馬 個展「けされる絵/描かれるじかん」
八戸ポータルミュージアムはっち ギャラリー3
〜3月13日(日)まで
posted by harmony